見れば東の窓から太陽が深くさし込んでいる。朝らしい。 ベッドから起きあがり、男は一面にどす黒いしみのついた服を脱いでゴミ箱に捨てた。 男はくたくただった。三日ぶりに自分の部屋に戻ってきたが、その三日間ろくに食事も睡眠もとっていなかった。昨夜帰って来て、冷蔵庫にあった食べ物をほとんどたいらげた後、ベッドに飛び込むと死んだように眠ったのだった。 タバコに火をつけベッドに腰かけると、男は昨日の夜のことを思い出していた。 山の中でいきなり草むらから飛び出してきた子どもは一体何だったのか。 何もかもが謎だったが、あのハイヒールを奪っていった以上、昨日の子どもが男にとって危険な存在であることだけは確かだった。 これは男の今後の人生にかかわることだ。 全力であの子どもを探し出さねばならぬと男は感じた。 今朝もいい天気だった。 小学校に向かって歩くおぼろは、背中のランドセルのほかに、茶色の紙袋を手に持っていた。 学校も間近になって、後ろから大きな足音が近づいてきたので振り返ってみると、タロがランドセルをがしゃがしゃ言わせながら走ってくるのが見えた。 「おはよう。」 タロはおぼろに追いつくと大きな声で言った。 おぼろも同じことばをぼそりとつぶやくと、手に持っている紙袋をタロに見せた。 「昨日のクツ。今日の帰りに警察署に持って行く。」 それを聞いてタロはおぼろから紙袋を受け取り中を確認した。赤いハイヒールが片方だけ入っている。タロは少し考えた後、おぼろに問いかけるように言った。 「僕にはこのハイヒールに何の意味があるのかわからないよ。ジャマ吉を車でひいた犯人のかと思ってたら、昨日あの場所に現れたのは男だったし・・・。あの時はあせったよ。おぼろはいきなり向かって行くんだもん。」 おぼろはタロから紙袋を返してもらうと、小さな声で言った。 「あのままあの男を行かせたら、何も手がかりがなくなるところだった。今日は帰る前にユッキーと話してみよう。」 ユッキーとはおぼろのとなりのクラスにいる雪野正(ゆきのただし)という名前の友達だった。 タロはけげんな顔をした。 「ユッキー?あいつが何か関係あるのかい?」 おぼろは一言、 「わからない。」 とつぶやいて、それきり黙ったままだった。 そうこうするうちにふたりは学校に着いた。 今日は土曜日で授業は三時間で終わりだ。 一時間目の授業が終わって最初の休み時間になるとさっそく、おぼろとタロはとなりのクラスに足を運んだ。 見るとユッキーは教室のうしろの方の自分の席でマンガを読んでいた。 「ユッキー、ちょっとこれを見て。」 おぼろはユッキーの席まで来ると、持ってきた紙袋の口を開けてユッキーに中を見せた。 ユッキーはマンガから顔を上げ、けげんそうな表情でおぼろの顔を見た後、紙袋の中をのぞき込んだ。 「何これ?」 ユッキーは鼻の上の眼鏡を押し上げた。最近かけはじめた眼鏡であった。 おぼろはややはきはきした声で説明した。 「こんな派手なクツをはくのはユッキーの姉さんかなと思ったんだけど、見覚えない?」 それを聞いてタロはなるほどと思った。確かにこんな小さな田舎町では、いつも派手な格好で外を歩いているユッキーの姉はかなり目立っていた。改めて見てみると、ハイヒールの色とデザインは決して地味とは言えないもので、このハイヒールから持ち主の年齢と性格がある程度特定できるような気がした。 ユッキーは面倒くさそうに答えた。 「姉さんは死ぬほどいっぱいクツ持ってるから僕にはわからないよ。」 おぼろは無表情のまま続けた。 「ユッキーの姉さんはちゃんと家にいる?」 ユッキーは馬鹿にするように笑った。 「姉ちゃんが家に帰って来るのなんか珍しいよ。今だってもう五日くらい帰って来てない。今年の春高校を出てから、仕事もせずに毎日遊び歩いているのさ。」 おぼろはやや大きな声で繰り返した。 「五日くらい前から帰って来てないんだね?」 それを聞いてユッキーは急に何か興味を持ったように、おぼろの方に体を向けた。 「ああ、それが変なのさ。いつもは今日泊まるとか電話があるのに、今回は何も連絡がないんだ。母さんはいつものことだからって心配してないけど。」 おぼろはまた質問した。 「ユッキーの姉さんは誰か若い男とつきあってた?」 ユッキーの態度はさっきよりまじめになっていた。 「外で姉ちゃんが誰と会ってるか全然知らないよ。何で姉ちゃんのことをそんなに聞くんだ、おぼろ?」 おぼろは何か考えているようだったが、やがて紙袋の口を閉めた。 「いや、何でもない。これを山で拾ったから聞いてみただけ。」 そのことばを最後に、あまり納得がいってないユッキーを残しておぼろとタロは自分の教室に帰って行った。 ちょうど次の授業の始まりを知らせるベルが鳴った。 おぼろのクラスの担任教諭である大瀧は四十に近い女性であったが、その容姿は年齢より大分若く見えた。実際体も健康そのものであったし、考え方も若々しく柔軟だった。基本的に教え子たちには自主性に任せて行動させ、あまりに目にあまるときしか怒ることもなかった。 そんな大瀧は、一風変わっているが成績も良く責任感の強いおぼろを特に気に入っていた。ひいきこそしなかったが、おぼろがすることはどんな変なことでも、すべて放っておいてかまわないという確信があった。 二時間目の授業のために職員室から教室に向かう途中、大瀧は昨日の帰り際のことを思い出していた。 おぼろは野良犬が誰かに殺されたと言っていた。 おぼろのことだから心配はいらないと思うが、直感として今回はおぼろが何か危険なことに巻き込まれているような気がした。 どうしたらいいだろう。 教室にたどり着いた大瀧が室内を見回すと、うしろの方の席でおぼろは机の上にひじをついて何か考え込んでいた。いつも先に教科書を開いて読んでいるおぼろにしては珍しい光景だった。 だがどっちみち、おぼろが何を考えているのか理解するのは普通の人間には不可能だ。 大瀧は何かをあきらめたような気持ちで、算数の授業を始めるのだった。 [つづく] |