山の奥深くにたった一軒だけぽつりと建っている民家。そのとなりにある小さなもの置き小屋の中で、男は昼間から隠れていたのだった。 小屋の戸を少しだけ開けて外をのぞくと、すっかり暗くなったけもの道やそのわきの茂みを、空に浮かぶ白い月がぼんやりと照らしていた。 男はゆっくりと外に出た。月の光の中でも、男の服がどす黒いもので汚れているのがわかった。辺りに人の気配がないのを確認すると、男は小走りにけもの道を下った。 やがて小石の敷きつめられた山道へと到着すると、道路わきにとめてあった自分の車に近づいた。 異変はない。 男はポケットから鍵を取り出し、運転席に乗り込むと静かにエンジンをかけた。 トランクの中の「荷物」を、できるだけ山奥の人の踏み込まぬ場所に埋めて来ねばならない。 この作業には男の今後の人生がかかっていると思った。 車は静かに山道を進んで行った。 次の日の朝、六時五分前にタロが家の外に出ると、タロの庭の木からおぼろがおりてきた。 タロはけげんな顔をしておぼろに尋ねた。 「なんだってこんな朝っぱらから木なんかに登ってたんだい?」 おぼろは当たり前のように、無感動な声を出した。 「早く来すぎた。」 タロは納得がいかず、さらに問う。 「でもなんで木に登るんだ?下で待ってればいいだろう。」 おぼろはもう行こうと言わんばかりに歩き始めながら説明した。 「窓から僕の姿が見えたら、タロがあわてるだろう。まだ6時になってなかった。」 タロは、あい変わらずだと思って、それ以上何も言わなかった。 秋の早朝はすがすがしかった。まだうす暗い空にはちらほら雲が浮いているのが見える。 「今日はいい天気になりそうだ。」 と、歩きながらおぼろが言った。ふたりとも頭の中はこれから見なければならないおぞましい光景への緊張でいっぱいだったはずなので、おぼろがいきなり天気のことなど口に出したのはタロにとって意外だった。これも、これからつらい仕事をするタロのことをおぼろが気づかった結果なのかなと、タロは思った。 防火水槽に到着して、おそるおそるコンクリートの塀の上から水の中をのぞき込んだタロの目にとびこんできたのは、もう一生見たくないような悲惨な光景だった。 野良犬のジャマ吉はあわれな格好で水に浮かんで死んでいた。 早朝だったせいか上空で無数の小鳥がさえずっていたが、タロには鳥たちがこの異変に大騒ぎしているように聞こえた。 おぼろは少し表情を歪めただけで、事務的にリュックの中からロープを取りだした。 「これでジャマ吉を引き上げる。」 説明すると、おぼろはひとりでうまくロープを駆使し、ジャマ吉の体にロープを巻き付けて防火水槽から引き上げ始めたので、タロもあわててロープを引っ張るのを手伝った。 びしょびしょに濡れたジャマ吉の体が塀を越えて草むらに横たえられると、おぼろはしばらくその隣にすわってジャマ吉を見つめていた。 タロもおぼろの気持ちを考えてじっとそこにすわっていたが、やがて草むらのところどころにどす黒い汚れがついているのを発見した。 「これはジャマ吉の血?」 思わずタロが大声を上げると、おぼろは小さくうなずいた。 「うん。ジャマ吉は殺されてからここに投げ込まれたと思う。」 ジャマ吉の血と思われる地上の黒い斑点は、けもの道の方へと続いていた。 二人はいったんジャマ吉をそこに置いたまま、血痕をたどって歩き始めた。 数十メートルもけもの道を歩くと、血痕は二人を小石の敷きつめられた山道へと導いた。 山道に出てからも少し血の痕は続いたが、やがてジャマ吉はここで命を落としたに違いないという場所にたどり着いた。山道の真ん中におびただしい流血のあとがあったのだ。 「ジャマ吉は車にはねられたんだ!」 タロは大声を上げた。この惨状の説明は誰にでもつけられると思った。 しかしおぼろはぼそりとつぶやいた。 「何かおかしい。」 タロは意外なおぼろの一言に、黙っておぼろの方を振り返った。 おぼろは辺りを丹念に調査しているようだった。タロがおぼろを見守っていると、おぼろは山道のわきから、何か赤い小さなものを拾い上げた。 「女の人のクツだ。」 おぼろがそう言ってタロの方に持ってきたのは、まだ新しいハイヒールの片方だった。 「なんでハイヒールがこんなところに?それにまだ新しい・・・。」 タロはわけもわからずおぼろの顔を見た。おぼろも何もわからないらしく、 「何かおかしなことが起きている。このクツは元の場所に戻しておく方がいいだろう。」 と、ハイヒールを元あった場所に、元あったように忠実に戻した。半分草むらに隠れて見えない状態まで元どおりであった。 「先にジャマ吉をうちの庭に運んで埋める。早くしないと学校が始まるから。」 おぼろはタロに元来た道を戻るように促すしぐさをした。 タロはスッキリしない気持ちだったが、そう言われると仕方なくおぼろとともに今来た道を引き返すのだった。 高いところからその一部始終を見守っている者があった。 その存在を人間に知られることなく長い間山の中に棲んでいるその者は、おぼろたちの去る姿を見ながら「なかなかおもしろい子供だ」と思った。 しばらくしておぼろたちの姿が遠くに見えなくなると、その者は愉快そうに木から木へと飛び移り始め、やがてまぼろしのように山奥に消えていった。 [つづく] |