完全な夜を目前に、空はむらさき色に染まっている。 山の中、立ち並ぶ高い木のうちの一本の上に、おぼろはいた。枝に腰かけているおぼろの姿はおい茂る葉に隠れて、下からは見えない。 木の下ではふたりの人間が話していた。 「おぼろが見あたらないんだけど・・・。」 そう言ったのは細身で顔だちのはっきりした女性だった。ただその顔は、もう何年も心配ごとをかかえ続けてきたというような表情にかためられてしまっている。実際、毎日彼女と顔を合わせているおぼろには、彼女が起きている間はいつも何かを心配しているのだとしか思えなかった。 その女性はおぼろの母だった。 「どうせまたその辺に隠れてるんじゃないすか。」 にやにやしながらおぼろの母にそう答えたのは、肩に釣り竿をかかえた少年だった。彼は沢での魚釣りから家に帰る途中、おぼろの母に呼びとめられたのだった。少年はおぼろの同級生だった。 「あの子も来年は中学生だというのに、いつまでたっても子供のままで心配だわ。」 その母親のことばが、こんな夕暮れまでのんきに釣りをしていた自分への非難をも含んでいるのかどうかを吟味するように、少年は自分の釣り竿の方を見た。 おぼろの母はそれを見て吹き出した。 「ふふ、私はてっきり、あの子はまたあんたといっしょにどこかをほっつき歩いてるんじゃないかと思ってたんだよ。」 「こう言っちゃなんですがね、おばさん」 少年はにやついたままで抗議した。 「一般的に中学生は、まだ子どもですよ。」 そのことばは、少し背伸びした少年のたわごとだとみなされたらしく、おぼろの母は軽く笑っただけで、話を続けた。 「今日はおぼろといっしょに遊ばなかったんだね。」 少年はにやけ顔のままそれに答えた。 「学校から帰るときはいっしょでしたよ。釣りにさそったら、今日は釣りの気分じゃないって言ってましたが。」 おぼろの母は山奥の方に顔を向けながらつぶやいた。 「一体どこに行ったのやら・・・。」 少年は彼女の見つめる森をいっしょに見ながら言った。 「おぼろは多くを語りませんからね・・・。でもいつも何か複雑なことを考えてるようです。」 おぼろの母ははっとして少年の顔を見なおした。 「あんたらがなんでそんなに仲がいいのか、私はいつも不思議だよ。あんたの十分の一ぐらいの愛想がおぼろにあればと、常々思ってるのに。」 少年はにやけたままだった。 「おぼろはあれで愉快なヤツです。普段は無口ですが、しゃべるべき時ははっきりしゃべりますし。」 母親はため息をついた。 「家じゃなんにもしゃべらないんだよ、あの子は。」 またカラスが鳴いた。 おぼろを見かけたらすぐ家に帰るように伝えてほしいと言い残して、母親は自分の家の方に帰って行った。 釣り竿をかかえた少年はしばらくその後ろ姿を見守っていたが、背後の木にかすかな物音を聞いた気がして、振り返った。 そこには木からおりて来たおぼろが立っていた。 「盗み聞きとは趣味の悪い。」 にやけた少年の批判に、おぼろは無表情のまま首を横に振った。盗み聞きではないという意味だった。 「明日朝六時に起きられるか?」 おぼろのその質問は唐突だった。無表情ではあったがどこか興奮ぎみのおぼろに、にやけた少年はのんきな調子のまま答えた。 「また何か楽しいことを考えついたらしいな。あいにく、毎日六時には起きてるからおぼろの道楽につきあわにゃならんようだね。僕は生まれつき朝型人間なんだ。」 それを聞いておぼろは当たり前のように言った。 「うん。でも今回のは全然楽しくない。」 おぼろの様子が何かいつもと違うことに気づいて、少年のにやけ顔は少し弱まった。 「一体そんな朝っぱらから何をするんだね?」 少年の質問に、おぼろは小さな声で答えた。 「ジャマ吉を埋める。」 「え?」 ジャマ吉はこのかいわいをうろついている茶色い野良犬につけられた名前だった。おぼろたちが釣りなどをしているといつもそばに寄ってくるのが理由で、ジャマ吉と呼ばれていた。 「ジャマ吉死んだの?」 そう尋ねる少年の顔から「にやけ」は完全に消えていた。 おぼろはうなずいて言った。 「タロが最後にジャマ吉を見たのはいつ?」 タロとは「太郎」が短縮されたもので、今おぼろと話している少年のあだ名だった。 「一週間くらい前に古池に釣りに行ったときかな・・・。」 タロの返事を聞くとおぼろはしばらく山奥の方を見つめて黙っていた。 タロは、何かの考えにとりつかれているらしいおぼろに、優しい調子で声をかけた。 「なるほど、学校の帰りに考えてたのはそのことか。今日は一日ジャマ吉のゆくえを探してたらしいね・・・確かに最近ジャマ吉の姿が見えなかったからな。ジャマ吉はどこにいたの?」 おぼろはタロの目を見た。いつものことだが、横長のおぼろの目に見つめられると、タロはほんの少し威圧感を感じた。だがすぐにおぼろは方向を指し示すため、顔を町の方に振った。 「北の防火水槽。」 おぼろの町には各地に消火に使うための水をためた四角いコンクリートの池が作られていて、防火水槽と呼ばれていた。町中にあるものは表面に金網がはってあって子どもなどが落ちこまないようになっていたが、町のはずれにあるものは、四方に高いコンクリート塀をつけてあって、金網はなかった。「北の防火水槽」は後者の方だった。 タロは驚いて大声をあげた。 「水の中にいたの?!」 おぼろはうなずいた。 おぼろがそれ以上何も言わないので、タロは興奮ぎみに尋ねた。 「おぼれ死んでたの?」 おぼろは無表情のまま声をしぼり出した。 「ジャマ吉が自分であの高い塀を飛びこえて水に落ちたわけがない。誰かが放りこんだんだ。」 おぼろの声には疑う余地のない怒りが込められていて、タロはまた威圧感を感じた。しかしタロがおぼろをこわいと思ったことは一度もなかった。おぼろはぶっきらぼうだが、内側には限りない優しさを秘めていることを知っているからだ。また、おぼろがものごとを感情的に考えることがないのも知っていた。そこで、ジャマ吉の死が誰か人間の手によるものだという考えにいたったのには、何かはっきりした根拠があるのだと悟った。 「どうしてそう思うの?」 タロの質問に、おぼろは少し間をおいてから答えた。 「明日、防火水槽に行けばわかる。今日はもう暗くなった。」 それを聞いてタロはさっき不審に思っていたことを思い出した。 「さっきはなんで木なんかに登ってたんだ?」 おぼろは、たいしたことでもないというふうに淡々と答えた。 「タロが帰りにここを通るのを待ってた。向こうから母さんが歩いて来るのが見えたから木に登って隠れた。母さんが行ってしまったらまたおりてくるつもりだったのに、タロがその時ちょうど歩いてきて、偶然僕の下で母さんと話し始めた・・・。」 おぼろの言う内容がやや言い訳の雰囲気を含んでいるのに気づいたタロは、またにやけ顔を作った。 「ああ、それなら盗み聞きとは言わないな。」 タロのそのことばに満足したのか、おぼろは軽く手を振って別れのあいさつとした。 「明日の朝六時にタロの家の前にいる。」 そう言うとおぼろは、今母親が去って行った道を走っていった。 いつものことだった。タロは理解していた。おぼろがタロを帰り道でわざわざ待つのは、釣りを楽しんでいるタロのところに犬の死などという陰気な話題を持って行ってジャマしたくないというおぼろの考えからなのだ。おぼろはもっと早い時間にジャマ吉を発見していたのだろう。しかしおぼろは、タロが釣りをたんのうするまでいつまでも待つような男だった。 おぼろのような、情熱をうちに秘めた男が、自分の釣りの終わるのを長い間待っててくれたと思うと、タロはなんだか変な気分になった。おぼろはとても変なやつだ。普段は静かで真面目なのに、何か行動を起こすとほかの誰も持ってないような強烈な個性を発揮する。そしておぼろのやることはいつも成功する。 おぼろはタロの知っている中でもっとも変な男だった。そしてもっとも好きな男だった。 ジャマ吉の死に漠然とした気味悪さは感じていたが、明日の早朝におぼろに会うのをタロは楽しみだと思った。 しかし次の日にふたりがおそろしい事件に巻きこまれようとは、知るよしもなかった。 [つづく] |